己の心が命じるまま、ほたるは駆け出していた。 この視界不明瞭な霧の中かなりのスピードで走っているのにもかかわらず、 物にぶつかったりはしない。 何が何処にあるのか見えているのかと疑いたくもなるが、むしろその逆。 誰一人、この町の中を歩いていない。 厳密に言うと霧の中には誰も何もない。 さっき宿でこの霧を眺めていたときには遠くだが確かに人の声が聞こえた。 しかし灯によってこの中に突き落とされてからは 人の気配が徐々に薄れていく。 それは霧の濃さに反比例して、濃くなれば濃くなるほど 人々は姿を消し、気配が薄れる。 「…結界……?」 〜 鈴 〜 ほたるは過去の戦歴から答えを導き出す。 普通と違う場所というのは大抵結界の中に入り込んでしまった時によく現れるのもだ。 そして同時にその場合の脱出の仕方も心得ていた。 この結界をつくっている人か物を探せば―― 『…とりあえずコレは消える……と思う。』 そう考えると一番怪しいのはあの桜だ。 桜の匂いはするし、そちらに向かえば向かうほど霧が濃くなる。 これは決定的だ。 と別れた時とは比べ物にならないぐらいあたりは真っ白になっている。 足元を見やると動かして走っているはずの足も霞んで見えない。 しかしほたるはのんきにも雲の中を走ったらこんな感じかなっと物思いにふけっている。 それでも自分の仕事を忘れたわけではなく、走りつづけて昨日の茶屋の前まで来た。 そしてその走ってきた勢いをそのまま利用し、地面を強く蹴って飛びあがる。 続けて刀を抜き放ち上段から勢い良く振り下ろす。 「灼欄炎帝…!!」 真紅の炎が剣先からほとばしり回りの白い霧を一瞬にして蒸発させる。 熱風を肌で感じながら開けた視界からあの桜を探す。 「…見つけた。」 昨日と変わらない桃色の枝垂桜は何処か不気味に思えた。 今日は妙な威圧感を感じる。 それでもほたるは桜を燃やす事に躊躇わなかった。 何故ならそれが全ての元凶で、 桜を燃やせばこの心の中の言い知れない不安と焦りも一緒になくなると思ったから。 実を言えばほたるは何故駆け出したのか自分でも良く分からなかった。 あえて理由を付けるならあの桜が危険だから。 もっと理由をつけるとそれがと関係しているから。 眼下に桜を見据え、続けて魔皇焔を放とうと刀を構えると、 桜の一部がキラっと瞬いた。 次の瞬間、緩やかに落下を始めていたほたるの体目掛けて 空を裂き、銀色の物体が続けざまに五つ飛来する。 宙に浮いた状態ではそう身動きは取れない。 なら一気に消滅させる方が手っ取り早そうだ。 ほたるがそう思いたつやいなや、巨大な炎の塊が銀色に輝く物体を捕らえる。 そしてそのままの勢いで桜まで燃やしてしまおうと火力を強め火球を放つ。 しかしここでほたるは目の端に動く物を見つけ、 危険を感じ振りかえると同時に刀でそれに攻撃を加える。 一つは真っ二つに分かれ落ちていったが、もう一つは鋭い痛みと共に右肩に食い込む。 魔皇焔の熱に耐え忍んだ飛来物のうち一つがほたるを捕らえたのだった。 「君はお呼びじゃないんだよ。」 くすくすと何処からか忍び笑いが聞こえた。 ――何処かで聞いた事のある声。…誰だっけ? しかしほたるが声の主は見つける事は出来ず、 かわりに桜から発せられた光によって辺りは眩いばかりの光で満たされる。 体がだるい。 この真っ白でなんの変哲も無い霧を眺めているからだろうか。 さっきからいつもより体が重い気がするのも、なんか動き難いのも、 ちょっと息苦しいのもみんな霧の所為のような気がする。 はほたるに置いてけぼりをくらって早速路頭に迷っていた。 もうどっちを向いても霧、霧、霧で何も見えない。 さっきから一生懸命、宿があった方向を思い出そうとしているのだが、 ほたるを追いかけようとして転んでからはもう良く分からなくなってしまった。 「…仕方ないから風で探すか。」 なんでもかんでもすぐ風に頼ってしまうのは良くないなっと思いつつも やはり最後の頼みの綱は自分の特殊能力。 物に当たって跳ねかえってきた風で大きさや距離感を掴むというのは、 いつでも何処でも大変重宝する。 しかしこれは集中力を要するので敵がいない時にしか使えないという難点もある。 姿勢を正してその場に立ち、両手を胸の前で合わせて目をつぶる。 深呼吸してからその場で両手を広げながらくるりと一回りする。 するとが回った事によって生まれた風は最初の回りで漂っていたが、 すぐに同心円状に大きくなりながら周囲に広がってゆく。 いよいよ探索を開始しようとした瞬間、急に風の気配が消えた。 「…えっ?!」 慌てて目を開けるがそこには前と変わらないただ真っ白な霧が辺りを包んでいる。 霧に飲みこまれでしまったとでも言えば良いのだろうか。 緩やかに地面の上を滑っていった風は忽然と姿を消してしまった。 「…そう言えば、さっきから風を感じないな。」 いつもなら呼ばなくてもまとわり付いて来る風は形を潜め、 いまは呼んでも来ない。 「もしかして結界?コレ。風封じ込められた?」 どうしよう。もうなす術がない。 頭を抱えて考えこんでしまったは途方にくれる。 しかしいくらもしないうちに顔を上げるとトコトコと歩き始めた。 「移動してればそのうち何とかなる…よね。」 ものの数秒で立ち直ってケロリと決断を下すのは、 こういうことに場慣れしているから出来る芸当だろう。 しかしこれが事態を進める上で役に立つがどうかは不明だ。 「うぅ〜やっぱりだるい。」 そもそもは生まれた時から風使いだったため、 風を使役できない状況と言うのは常識としてありえなかった。 だから日常で無意識に風を使って人より高く跳び上がったり、 人より素早く動いたり、呼吸をするのも普通の人とは効率が違う。 そのおかげで今まで生きてこれた訳だが、 風が無ければ一般人以下と言われてしまうのも無理も無い。 こうして歩くだけでも疲れるという事は日頃無意識の内に空気抵抗をなくし、 もしかしたら重力も誤魔化していたのかもしれない。 無意識と言うのは恐ろしい物だ。 「ほたるとか灯ちゃんとかこんな中で生活してるんだね〜。 強くなるわけだ……。」 そう自己解釈をし終えると、なにやら場の雰囲気が変わった。 どうやら物語りは進展したようでほたるがものすごく気にしていたあの桜の匂いがした。 そしてまだ霧で霞んではいるがあの桃色の桜の姿が見え始めた。 もう少し近づくと桜の枝振りもはっきり見えてきた。 相変らず見事に咲き誇る花は昨日と全く変わっていなかったが、 枝振りには少々の変化が見られ右の上の方は焼け焦げた様に炭化していた。 そしてそれに混じって聞こえてくるのは誰かの鼻歌と甘く香ばしい匂い。 は記憶を紐解き、この匂いとある食べ物を結びつける。 「……焼き立ての…プリン?」 嫌な予感がした。 あの光で目がくらみ気が付いたら霧の外に放り出されていた。 バランスを失った体を何とか整え足から着地できたのは良いが、 肩に食い込んだ物は思ったよりも深く突き刺さった様で右腕が痺れてきた。 「……くっ…!」 左手を伸ばして右肩に食いこんだそれを力いっぱい引き抜くと、 塞き止められていた血が腕を伝って地面を紅く染める。 傷は深いが肩という位置からして重傷ではない。 痛みに顔をしかめながらほたるは手の中の物体を見やる。 紅く染まった四角いプレート状のもの。 いや、カードだ。 この独特の色彩といい、絵柄といいほたるには見覚えがあった。 裏の陰陽の印と表の旅人が崖から落ちそうになっている絵。 「…これは…。」 嫌な予感的中。 「待ちくたびれたよ、。」 突然背後から抱きしめられ、何処かで聞いたような声が聞こえた。 ついついプリンの匂いに気を取られてまた逃げ遅れた。 「…!時人、なんでこんな所に?」 恐る恐る振りかえるとあの不適の笑みを携えた美少年がそこに立っていた。 が壬生から出てきた理由の一つのそれはくすりと笑って一言付け加える。 「この僕から逃げられると思ったの?」 「…い、いったい何のことやら…。」 不自然に目を泳がせたとは対照的に、 時人は満足そうな笑顔でそんなを見ている。 「婚約者の僕を置いてくなんて酷いじゃないか。」 「…変態時人が来た…。」 ほたるは暗い表情でそう呟くと手の中にあった愚者のカードを握り締める。 この霧は時人がしかけた物だろう。 そしてここに飛ばされる前に言った台詞。 ――君はお呼びじゃないんだよ。 っとなると目的ははっきりしている。だ。 我等(兄)姉弟の疫病神。 何度ヤツが食べさせたキノコの所為でがおかしくなった事か。 毎回食べるもだが食べさせる方が悪い。 ついこの前も突然婚約者だなんだと言ってたっけ。 は壬生中を逃げ回ってた。 あの自分勝手で我が侭なところが嫌い。 『…がお人好しだからアイツがつけあがるんだ。』 肩の傷も時人がやったとなると無性に腹が立つ。 こんなところでのんびりしていられない。 無言で立ちあがるとほたるは眼前に漂う霧の方へ歩き出す。 しかし、相手はあの時人だ。 簡単に中には入れないことは予想できたし、 実際霧の中に入ったと思ったら方向も変えてないのに霧から出てきてしまった。 早くしないとまたどんな人災が降りかかるかわからない。 「…ムカツク。」 やはり何度やっても霧に入ると同時に出てきてしまう。 イライラと舌うちをしてどうにもならない状況に焦りが増す。 腕を組んだまま霧の前を行ったり来たりしている様子は まるで檻の中の虎だが、本人は真剣に悩んでいる。 右肩が血でぐっしょり濡れているのも構わず、 刀で霧を切ってみたりもしたのだが事態は変わらない。 むしろ肩の傷口が大きくなった。 自分の無力さに怒りを覚える。 ――情けない… らしくないと頭を振ってその考えを振り払おうとするが、 それはかえって不安が募る。 もう虎は檻の中を動き回る事もせずただその場に立ち尽くしていた。 「…肩が痛い…。」 触ってみると手にべっとりと血がつく。 未だ出血は続いている。 「……ムカツク…。」 ――自分に。 そのとき自己嫌悪に陥るほたるを励ます様に軽やかな音が聞こえた。 ……チリンッ… すぐに音の正体に思い当たって着物の袖の中を探る。 がくれた銅色の鈴。 改めて見てみても何の変哲もない鈴だ。 でもさっきは何処にも触っていないのに独りでに鳴った。 はコレを発信機と言っていたっけ。 試しに左右に振ってみる。 ………。 「…ん?」 おかしい。さっき振ってみたときにはちゃんと鳴ったのに、 今は目の前の鈴からは何の音もしない。 鈴に正しい振り方なんてあるのだろうか。 もう一度、今度は上下に強く振ってみる。 ……チリンッ…… 今度は聞こえた。 右前方、木立の密集している方から微かに鈴の音が聞こえた。 慌てて手の方の鈴を確認するが投げ飛ばしてしまったわけではなかった。 小さな鈴はちゃんとほたるの手の中におさまっている。 鈴を耳の側まで持ってきて指で弾いて鳴らしてみる。 ……チリンッ…… 結論としては鈴自体は音を発しなかった。 しかしさっきと同じ方向から音が聞こえる。 『何処にいてもすぐ分かるよ。』 それはずっとから自分の位置が分かる事だと思っていたが、 もしかしてこれはの位置が分かる物なのではないだろうか。 「…じゃぁこれは探査機って言うんじゃない…?」 珍しくもっともな事を言ったのだがそれは誰も聞いていない。 この状況を打破するかもしれない鈴の音を頼りにほたるは木立の方へ歩を進める。 TO BE CONTINUED ⇒ |