――季節の移ろいの中でしか時間が過ぎゆくのを感じることができなかった。 ――春なら桜、夏ならあの暑さ、秋は紅葉と虫の声、そして冬は真っ白な雪。 ――だからあの桜はとても不思議で初めてだった。 〜 霧 〜 あの後無事日暮れ前に宿に辿り着いた二人は “町の安全のため”今日は宿に泊まることにした旨を灯から聞いた。 そしてほたるはそれを聞くと昼寝すると何処かに消え、 狂は面白くもなさそうに窓の外の町並みを見ている。 「とりあえず、触らぬ神に崇りなしっね。」 灯の目線の先には宿につくなり動かなくなったらしいアキラと ストレス発散のため飲みまくっていたらしい梵天丸の大きな体が転がっていた。 梵天丸を中心に散乱している酒瓶の数々は 今日アキラが必死にここまで運んできたうちの一つ、狂一押しの地酒なのだが、 それら全ては青い顔をして酔いつぶれている巨体の胃袋に納まってしまったようだ。 後でアキラがカンカンに怒りそうだが今はピクリとも動かない。 「全くアキラって貧弱よね〜。」 灯は溜め息混じりに冷たく言い放つがアキラがこうなった一番の原因は 前日に灯が商売をするっと買いこんだ数々の着物だと言う事はは知っていた。 それを全部アキラに押し付け、『傷物にしたらタダじゃおかないわよ。』と 厳しい注文をつけているところを目撃したのだ。 しかし商売をするっといって買いこんだ物は時が経つと全て灯の物になっていく。 「…灯ちゃん、アキラをいじめるのも程々にしないと。」 灯は何かとアキラを気にかけているが、 その様子を見ているとどうしてもアキラに同情してしまう。 そこでがそれとなくアキラをフォローすると 灯はさも意外そうに目を丸くしてみる。 「あら?別にあたしはアキラのことをただいじめてるんじゃないのよ?」 「…え?」 「私はアキラのためを思って……。」 そういって灯はに微笑むと暖かな眼差しでアキラを見やる。 それは我が子の成長を喜ぶ親の眼差しに良く似ている。 の方まで暖かくなる様な優しいものだった。 そんな暖かな眼差しを見ては今までの灯の間違った見方を訂正した。 今までただのいじわるなのかとも思っていたアキラへの仕打ちは サムライを志す彼への裏返った愛情のなせる技。 ――これが世に言う愛の試練なんだね。 そう思いがいつもとは違う尊敬の眼差しで灯を見詰め返す。 と、突然灯は表情を一変させ暗い笑みを浮かべて台詞を続けた。 「そうよ、私はアキラのためを思ってるから こうしてからかって楽しんでいるのよ。ほっほっほほ〜。」 「…ごめん灯ちゃん、もう寝るね。」 黒い笑いをこぼしている四聖天の女王に別れを告げると はさっさとその場を離れて寝る準備を始めた。 『やっぱり、灯ちゃんは灯ちゃんだった。』 明くる日、が目覚めても事態はさほど変わっていなく アキラは悪い夢でも見ているのか酷くうなされていて、 梵天丸はひゅーひゅーと頼りない呼吸音と脂汗をかいている。 飲み過ぎが祟ったのだろうか。 そして窓際の狂が空の酒瓶を振って物悲しげに一言。 「…オレの酒がねぇ…」 それもそのはず、昨日梵天丸が妬け酒で全てを飲んでしまったのだから。 狂は大分アルコールが薄れてきているようでだんだん酒瓶を振るスピードが速くなってゆく。 はとてつもなく身の危険を感じ、思わず一歩後退る。 「…狂、大丈夫?」 「それが大丈夫じゃないのよ〜。」 ほたると深刻そうな顔をして話し合っていた灯が 目ざとくを見つけて話の輪に加える。 「禁断症状がでちゃってるからお酒を追加しないといけないのよ。」 「うん。そうだね。」 「で、その事をいまコイツに頼んでたんだけど…。」 「…ヤダ。」 「って言うのよ〜。」 「へぇ〜…」 それならそもそも灯が行けば良い事なのだが女王にそんな事は言えない。 ほたるもほたるで今日はやけに意地を通そうとしている。 灯の「行け」とほたるの「ヤダ」とがまたしばらく続く。 灯が他人のものの買い物に行かないのはいつものことだが、 行けと言われて買い物ぐらいにならすぐに行くほたるがここまでごねるのは 何かしらの理由があってのことだろう。 「ねぇ、何なら私が行ってこようか?」 それならとは未だ押し問答している二人に声をかける。 この間にも狂の酒瓶は速さを増し、いよいよ本当に限界が近そうだ。 そんなこんなでこの場から逃げ出すという事も含めては進言した。 しかしここで「本当?!助かるわぁ〜。」と顔を輝かせてそれに同意している灯と 「…え、危ないからもっとダメ。」とさらに困惑した様に眉をひそめるほたるの 全く正反対な解答が返ってきた。 これでは自分がどうすれば良いのか分からなくなってしまった。 もうは首を傾けて疑問符をそのまま顔に貼りつけ、 ダメ出しを聞きつけた灯が目を吊り上げてほたるを問いただすのを 黙って見守る事しか出来なかった。 「どうして今日はそんなに嫌がるのよ!!」 「ん…だって今日はアレだから。」 「「…アレ?」」 そう言うなりほたるは危険な狂の脇をすり抜けて窓際へ行くと、 障子戸を開けて外を指差す。 つられる様にして窓の外を見るとそこには有るはずの物が無い。 確かここの民宿は大通りに面していて外には向かいの金物屋を始め、 呉服屋もあったと思う。 そして昨日のような大勢の人通りも全く見えない。 それらは真っ白な濃い霧によって隠されてしまっていた。 例えて言うなら窓の大きさいっぱいにもう一枚真っ白な障子紙を貼りつけたようだった。 「すっごい真っ白!」 「…ね?今日は霧だから…。」 はほたるの側に駆けより窓から顔を出して外の様子を観察する。 昨日までは雲一つない晴れ模様だったのに今朝は一転。 ここまで濃い霧はこの地方独特のものかそこまでは分からない。 不気味なほど真っ白な霧もには面白かった様で、 とりあえず不思議な物に出会ったらはしゃぐというの性質通り、 楽しそうに何度も首を動かして外を見やっていた。 「本当に、何も見えないね〜。」 「うん。だから今日は危ないから外には出ないほうが良い…。」 「転んだら大変そうだもんね。」 「……何処までが地面だか分からないよね。」 「そうそう、何時手を出したら良いのか分からないよね。」 自分は地面の上を歩いているのだからそんな訳は無いということには とりあえず誰も突っ込まなかった。 チンプンカンプンなやり取りをしている姉弟は二人そろって窓の外を眺める。 耳をすませば人々の声や足音なども聞こえてちゃんと人がいることが分かる。 しかしそれらは濃い霧に吸収され近いはずなのに遠くに感じる。 そしてさらに耳をすませると後方からバキボキという怪音と 地鳴りのような空気の振動音が聞こえてきた。 「「…ん?」」 妙な殺気を感じて振り返ると何時の間に持ち出したのか錫杖を片手に、 顔に笑みを貼りつけ、一方では指をバキボキ鳴らしながら灯が近づいてきた。 「大丈夫よ。酒屋さんはこの通りをまっすぐ進んだところだから。 どんなに霧が濃くてもきっと見つけられるわ。」 言葉とは裏腹に態度や空気は威圧的で何処か有無を言えない雰囲気。 しかも顔は笑顔なのでなお恐ろしい。 どうやら真剣に今日は特別外出禁止日だと思っていた灯は、 霧が出たぐらいで行きたくないっと言ったほたるに猛烈な怒りを覚えた様子。 はとりあえず目立たない様にその場を立ち去ろうとしたが ほたるの余計な言葉でそれは叶わぬ物となった。 「…でもこの霧変な感じだし……。」 この雰囲気の中で口答えをしたほたるはあっ晴れなのだが、 それを聞くなり灯の眉が危ない角度に跳ね上がった。 そして錫杖を握り締める。 「ずベこべ言わずに買って来いっ!!」 そう言い放つととほたるを錫杖で同時に突き落とし、外の白い海の中に沈めた。 「うぅ…やられた。」 「…、大丈夫?」 霧を見ようと調子にのって身を乗り出していたのが仇となった。 掴まる手すりのような物も無く重力に引かれるまま落ちてしまった。 それはほたるも同じだがこちらはさっさと立ちあがって親切にもに手を差し伸べている。 はありがたくそれに掴まるって起きあがると、 灯に突かれた腰をさする。 「…灯ちゃんって時々容赦しないことがあるよね…」 「……うん。」 逆にほたるは鳩尾に一発入ったらしくお腹の辺りを手で押さえている。 もうちょっと灯に気づくのが遅れていたら、 何も分からずに気が付いたら宙を舞っていた事になっただろう。 本当なら避ける事も出来たのだが、二人が油断していたためにそれは出来なかった。 こうなっては仕方が無いので言われた通り狂の酒を買いに行くことにした。 大通りに降り立っても宿で見た景色とはさして変わらず、 むしろ一層濃くなったような霧が辺りを包み込んでいた。 「仕方が無いから行こうか?」 そうが切り出して歩き出そうとした時、 着物の埃を叩いていたほたるの袖口からコロンと何かが飛び出してきた。 チリンッ… 軽やかな音とともに地面に転がったのは銅色の小さな鈴。 括り付けられた黄色の紐を見るまでも無く それはいつしか再会した時にがほたるに渡した―― 「あっ、発信機…。」 「…あぁ、そういえば。」 地面に落ちたそれを拾い上げると、ほたるはそれを左右に振ってみる。 チリンッ…チリンッ…… 「…この鈴、発信機なんだっけ?」 「うん。それがあれば何処にいてもすぐに分かるよ。」 渡した本人も忘れていたぐらいだから手っきり無くしたものだと思っていたが、 こうしてちゃんと持っていてくれた事はちょっぴり、嬉しかった。 いやむしろ本当は手放しで大喜びしたいぐらい嬉しかったのだったが、 なんだか気恥ずかしくてちょっぴりほたるに笑いかけるにとどまった。 でもやっぱり嬉しくってついそれが言葉となって出てきてしまった。 「…ちゃんと持っててくれたんだね。」 はにかんだで、ちょっとうつむきながらそう言うと、 ほたるは逆にうつむいてしまった顔を覗き込む様にして少しかがむ。 そしてちょっとに笑いかける。 「だって、が初めてくれた物でしょ?」 ほたるの意外な言葉に目を見開いてすこし考えこむ。 確かに昔は何も持っていなかったし、物をあげるようなこともなかった。 ……ような気がする。 「……そうだっけ?」 「そうだよ。」 「…そうかぁ…そうだったね。」 すこし昔をかえりみて壬生の地に思いをはせる。 こうして振り返って懐かしいと思うなど夢にも思わなかった。 それは偏に地獄から救ってくれた者がいたから。 そう言えば、壬生に置いてきた人たちのことも気になる。 『…辰伶はちゃんと手紙読んだのかなぁ…。』 「…じゃぁ、早いとこ買い物すませよう。」 危うく自分の任務を忘れるところだった。 思い出に浸っていた自分を無理矢理呼び覚ます。 先に歩き出して霧の中に霞んでいくほたるを追いかけながら あの危険な狂の姿を思い出した。 あんな状態では暴れ出すまで半時もかかるまい…。 そんな考え事をしていたものだから先を行くほたるが突然止まったのにも反応が遅れ、 ほたるの背中にぶつかって、したたか鼻を打ってしまった。 「いたた…ど、どうかしたの?」 鼻をおさえて立ち止まっるり、ほたるの顔を覗きこむ。 眉根を寄せてひたと前の霧を見据え、どうもただならぬ雰囲気。 しかもその金の瞳は微かに殺気を帯びている。 「…桜だ。桜の匂いがする……。」 「えっ?」 眼前に控える真っ白な霧に向かって匂いを嗅いで見るが、 先ほどぶつけた後遺症でそんな匂いは微塵も感じられない。 小首を傾げもう少し前に出ようとしたを横から伸びた手が遮る。 「…は先に宿に帰ってて。」 あのを呼ぶ桜の匂い。 ほたるにはそんな強い確信があった。 そしてここにきてまたあの匂いがする。 本能がをここから先に連れて行ってはいけないと叫ぶ。 妙な焦りを感じながら気が付けば、ほたるは腰の刀に手を伸ばしていた。 「この霧が変なのはあの桜の所為…。」 「……?」 「だからは先に宿に帰ってて。」 「え、でもっ…!」 突然走り出したほたるには急いで手を伸ばす。 しかし結局ほたるを捕まえられず、 三つ編みに結った毛先を少し掠めてその手は空を掻いた。 TO BE CONTINUED ⇒ |